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サブカルチャー評論/レビュー/日常

境界線上の俺の彼女と幼馴染が修羅場すぎる

 「僕の下馬評が的を得ている!」と確信した『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』1話と2話。2話グロス回の作画が不安でしたが、OPやED、各話絵コンテ演出を含め総合的に上質な仕上がりでニヤニヤしてきた。


誰がどこにいて何を思っているのか

 さて、本題の演出。気になったのは「境界線」の演出方法。イマジナリーラインなどは有名な理論としてググればすぐ出てくると思うのですが、映像演出において「誰が」「どこに」という「Who」「Where」演出は非常に重要になります。
何故か。それはその人が「何を思っているのか」という非常に強い意味を持つから。
この辺りから「解釈」という曖昧なものが浮上してくるのですがそれはさて置き、今回はその「誰が」「どこに」という映像を強化する「境界線」の存在について。「縁側のサッシ」「部室のサッシ」の2つが「境界線」として登場します。


「あなた」と「私」-幼馴染の立ち位置-

 1話の「縁側のサッシ」は主人公/幼馴染を分断しています。このサッシは二人の関係性を強調します。演出から幼馴染が主人公に対して特別な気持ちを抱いていることがわかりますが、それは言葉では表現されません。これこそが演出。
ただし、この思いは「縁側のサッシ」を越えることがありません。幼馴染はシーンの中で一度もサッシを跨いで主人公の家に上がらないのです。もちろん他のシーンで一緒に食事をしたりする場面は登場しますが、この「サッシを越えない」という「表現しない演出」がその壁の大きさを物語っています。


「あなた達」と「私」-ヒロインの立ち位置-

 2話の「部室のサッシ」は主人公・幼馴染/ヒロインを分断しています。このサッシは三人の関係性を強調します。1話では「越えられない壁」として出てきたサッシですが、今回そのサッシを主人公が易々と越えていきます。越えた先にいるのは幼馴染。越えられないヒロイン。ね?色々考えられるでしょ?


まとめ

・サッシに注目すると演出がわかる

 言い過ぎですかね。言い過ぎるのも演出。こんな感じでゆるーく演出から俺修羅を見るのもいいんじゃないでしょうかという提案でした。