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映画『ヒミズ』と園子温監督と鬱と希望と若者の叫び

 映画館を出たあと、『ヒミズ』は近年でも稀に見る傑作邦画だと確信した。その『ヒミズ』を最近Blu-rayで見る機会に恵まれたので、その時に見た特典映像の情報も踏まえ、色々書いてみることにする。

 

ヒミズ』のテーマは「希望」

 一緒に見ていた友人達は「鬱な映画だね。」と形容した。それは多分合っていて、そう受け止めるのもひとつの価値観なのだろう。しかし『ヒミズ』のテーマは何かと聞かれたら僕は全力で「希望だ!」と叫ぶ。僕はそういう若者でありたいし、この映画はそういう若者に向けられた映画だ。この「希望」というテーマは園子温監督本人の口からも言われている。「若者のための、希望の映画」だと。鬱なのは「画面に漂う雰囲気」である。それは本質的ではなくて、表現のための表現に過ぎない。そこを履き違えて欲しくないために、ここの記しておく。『ヒミズ』は「希望の映画」だ!!

 

東日本大震災と東北被災地、そして脚本改変へ

 この映画は企画が走りだした後に2011.3.11東日本大震災を迎えている。この未曾有の災害を前にし、園子温監督は悩み、「脚本を変えざるを得ない。」「映画人として、東日本大震災を取り入れないのは不誠実だ。」という結論に至った。結果的にこの判断は映像に深みを与えている点で正解だった。もちろん「エンタメが被災地の映像を使うなんて、不謹慎だ!」という声もあるだろうし、園子温監督もそこは重々承知しているはず。しかし「ドキュメンタリーが被災地に足を踏み入れてよくて、映画がダメな理由はない。」と監督自ら被災地を映画に融合させる事を決めた。ここで重要なのはこの決定そのものでもあるが、もう一つ重要なのはその「使い方」である。映画冒頭で、中学校の教室を舞台に、主人公に対して教師が被災の現状と未来を熱弁する。その様は酷く憎たらしく視聴者は必ず嫌悪を覚える構成になっているのだが、実はこの熱弁はそれほど的を外していない。問題はその「伝え方」にあった。その「伝え方」の正解こそ「この映画自身」なのである。映画のラストシーン、「住田、頑張れ!」はこの映画というフィルターを通すことで、ズシンと心に届くものに変容している。

 

園子温流「演出術」

 また園子温という監督の映画のとり方も、そのクオリティの下支えとなっている。本来は「設定→テスト→本番」という手順を踏むのが実写では一般的らしい。「設定」で舞台装置をセット、役者との位置関係を決める。「テスト」で演技指導。「本番」でカットを重ねる、というものだ。だが園子温監督の手法は「テスト」をズバッと抜かした「設定→本番」という大胆な撮影を行う。これにより現場と役者に緊張感が出るとともに、大幅な時間の節約にもなる。節約=手抜きと考えがちになるが、この手法はむしろ逆で、高圧条件でのドラスティックな部分を抽出できる面白い手法だ。ここもまた、『ヒミズ』という激流の源となっているのだろう。

 

実写の編集特権

 そして実写の一番の特権である「編集」もまた凄い。例えばアニメであれば、ほぼ完成形の「絵コンテ」を元に制作が行われ、その設計図通りに作ったものがほとんどそのまま画面に乗る(もちろん、尺の関係で削る部分はある)。だが実写は「撮影」と同じかそれ以上に「編集」の効果が画面に現れる。今回ヒミズでは、1ヶ月弱ですべての撮影を行い、総撮影時間は上映時間とは桁違いの素材が撮れた。それをまず、3時間に圧縮してしまうのである。それだけでもかなり濃密なものとなったであろうが、それをまた上映時間の2時間程度に「編集」したのだそうだ。確かに上映時間としての3時間は長すぎる。しかし、それでも一旦編集した「3時間の作品」を「2時間の作品」にする苦心と労力。これもまた、大きく『ヒミズ』という映画のクオリティに寄与しているのだろう。

 

 『ヒミズ』上映されてかなり時間が経ち、この記事の意味合いも薄れてしまっているだろう。しかし、この記事を目にした人には、是非『ヒミズ』という映画を見てもらいたい。その思いで、ここまで筆を執ってみました。よろしければ上記のことを念頭に置きつつ、または心を空っぽにして、あの映画に浸る幸せを感じてもらいたいと思います。

 

ヒミズ 1 (ヤンマガKC)

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